1. 自分が芸術に求めるものは希望
  2. 自由を謳うなら脅迫に屈してはならない
  3. 脅迫と抗議は違う。過激な作品なら抗議はくる
  4. 助成金は出資者を納得させてこそ
  5. あいちトリエンナーレは2016年にも問題を起こしている
  6. 芸術も言論も越えてはならない一線がある

自分が芸術に求めるものは希望

自分が子供の頃、町中の電柱などに変な広告のポスターが
あちこちに貼られたことがある。
どれも挑戦的な絵と文字で構成されていて、
見に来るな、見るなら相当覚悟をしてこい、
◯◯会場では女性✗人が気絶した、のような内容。
思えばきちんと掲示許可を取っていたのかすら怪しいそれは
期間限定のある芸術作品のギャラリーの宣伝だったようで、
学校でも問題になり、先生から「見に行ってはいけない」というお達しが出た。
やんちゃなクラスメートが反骨精神を発揮して見に行ったが、
要するに本物とされる殺人現場の遺体を埋める映像が使われていることが
センセーショナルなだけで、映像として特に魅力もないし
気持ち悪いほどでもなかった、ということだった。

芸術というのにも色々ある。
飽く迄も自分の好みを言えば、ゲリラ的な広告や
挑戦的な内容、怖い・気持ち悪いと言ったネガティブな気持ちになるものは
作品として好きではない。
辛いのは現実だけでたくさんだと思っているから、
創作は希望や光を与えるものが好みだ。

勿論バッドエンドや悲劇も嫌いではないけれど
やはり何か救いがあって欲しい。

たとえば戦争物でも、悲しいものをただ悲しいと表現するだけでは
こうなりたくないからならないように、という結論でしかなく
まるで士農工商の仕組みのようだ。

 

自由を謳うなら脅迫に屈してはならない

さて、今回のあいちトリエンナーレ2019。
話題になっている表現の不自由展の内容は、自分の好みではない。
好みではないから展示をするな、とは原則として思わないのだが
今回の問題点はそこではない。

  • 表現の自由がある。それは脅迫など暴力に拠って曲げられて良いものではない。
  • 脅迫された場合安全に配慮した上で展示を続け、取りやめてはならない。被害届を出し、警察に捜査してもらい脅迫した犯人は逮捕されるべき。
  • 抗議と脅迫は全くの別物であり、抗議があったからと言って被害者ぶって表現の自由がまた一歩後退したなどと発言してはならない。抗議に日和って展示を中止するなら自分たちの事前の判断や覚悟が甘くかつ自分たちが表現の自由を狭めているのである。

自分の基本の考え方としては大まかに以上3点。
従って、元より展示を取りやめるべきではなかったし、
脅迫犯が逮捕されたのであれば、展示は再開するべきなのである。

 

少女像など展示中止問題 脅迫FAX送った疑いで男を逮捕 | NHKニュース   https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190807/k10012026791000.html

表現の不自由展 実行委が展示保存などを要求 – 毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20190812/k00/00m/040/083000c

表現の不自由を真に憂うのならば、脅迫によって曲げて良いものではない。

 

脅迫と抗議は違う。過激な作品なら抗議はくる

しかし今回のあいちトリエンナーレの表現の不自由展、事態はより複雑である。
自分が不愉快だと感じるのは主に

  • 昭和天皇の写真をコラージュし、その作品を焼き灰を踏みにじったものなど皇室関連
  • 平和の少女像他従軍慰安婦関連
  • 馬鹿な日本人の墓と題された、星条旗を下敷きに、寄せ書きが書かれた日の丸、「日本は病気である」「靖国神社参拝反対」「右傾化阻止」などと書かれた紙が貼り付けられた祠のような展示物

何故不愉快かと言えば、まず徹底して日本を馬鹿にしているのだから、日本人であることに誇りを持っている日本人としては不愉快になって当たり前。

従軍慰安婦問題について、それがまずあったかなかったか、日本軍が関わっていたかいなかったかの見解によって日本が過去の恥を隠匿しようとしていると受け取る人もいるようで。
太平洋戦争についても、負ければ賊軍、なのか窮鼠は猫を噛むしかなかったのか、日本が各国を蹂躙しようとしたのかで意見は分かれるだろう。
とは言え国の犠牲になった、前線で祖国を愛する人を守ろうとした人を馬鹿にすることは
天地がひっくり返ろうとも許されないことだ。
天皇陛下という存在についてもまた見解のわかれるところではあるが
それでも人の写真を馬鹿にする趣旨でコラージュし、燃やし踏みにじるのはやはり日本人であるなら怒りを覚えるはずだ。

初めて写真が入ってきたとき、日本人は写真を撮られたら魂を取られると考えた。
これは馬鹿にされるニュアンスで話されることもあるが、
本物と瓜二つの形になるから魂が宿っていると思うのは日本民族の感性である。
人形や針供養をするような、八百万の神を信仰する日本人にとって、
写真を破く行為は、大抵の人が違和感があるのが当たり前だ。
物であり、かつ人を象っているものなのだから、二重に憚られる。

天皇家になんらの言説を持たない人でも、写真を破り燃やす行為で
楽しい気持ちになれないのは、日本人なら原則持ってる感情だと思っている。

物に魂が宿っていると思うからこそ、踏み絵に抵抗があり、
現代でもお世話になった人のいる方角に足を向けて寝られないと言う。

現代は兎も角本来は上下(かみしも)の区別がしっかりしていたから、
物を下に置く、踏みつける、破るとまでなれば相当の行為と見做される。たとえばカフェに行っても荷物入れの籠がある。
鞄は下に置く、食事は上。だからテーブルの上にはっ絶対に置かない。
しかし地べたに直接置きたくもない。
それが生来の日本人の感覚なのである。

繰り返しになるが昨今の日本人はかみしもの区別がつかない人が増えており、
テーブルに平気で鞄を置く人、外で地べたに座りそのまま家の中に入る人、公園のベンチや電車の椅子などに靴のまま上がるなども多く
そうした人たちには「何を大袈裟な」という感覚なのかもしれないのだが
本来許されないことなのだ。

この辺りは歴史を知らないと理解できないことなのかもしれないとも思う。
目上の人から頂いた物は、物であっても自分の頭より下に置けない。
そういう感覚が身に染み付いていないとわからないのではないか。

ただそれでも、自分の思う日本人というのはそういった民族であり、
自分の主義主張に見合わない政治背景があったとしても
写真を焼き灰を踏む、人の顔を靴の下に置く、国旗を下に置く
と言った行為は、それだけで日本人の感情を逆撫でるものだと思う。

 

表現の不自由展の本質はヘイト表現
https://twi55.com/tsuda20190806/ 

 

ヘイトであり、日本国としてのスタンスを揶揄するような展示内容。
しかもそれは故意に日本を馬鹿にする意図があったかのような話もある。

そうした過激な”作品”なのであれば、抗議がくることは当たり前だ。
抗議が来たこと自体を”不自由だ”と嘆くのは間違いだ。

 

助成金は出資者を納得させてこそ

また、更に問題を複雑にしているのは助成金が使われていることにある。

百歩譲って、私費で作家個人が作品展をしているならまだ良いが
助成金を使い県の公の事業として成されている展示である。
であれば、行政としてこの作品は展示にふさわしくないと判断するのは
検閲には当たらないと考える。

 

津田大介「行政が口を出すのは検閲に当たる」は的外れ:トリエンナーレ表現の不自由展 https://www.jijitsu.net/entry/hyougennofujiyuuten-kenetsu

 

また大抵の美術館は特定の政党宗教を指示反対するものは使用を認めない。
ここまで展示の思想が偏っているものの展示の為には使用許可が下りないことはままあることで
それが不自由だと思うからと言って決まりは決まり。
私費で自分達で見つけた過激なものも展示できるギャラリーで
展示を行うべきだ。ルールを守っているからこそ自由は語れる。

一般社団法人日本劇作家協会が
「表現の不自由展・その後」の展示中止についての緊急アピール
http://www.jpwa.org/main/statement/appeal20190806
を出したが、この内容はいかがなものかと思う。

美術館で展示を拒否されたことには理由があり、
表現が弾圧されたというよりも衛生面などの問題で撤去することになったものも多い。
『威嚇に屈した今回の事例』というなら、展示中止を決めた津田氏にアピールするべきであるのに、
検閲として行政を責めている。
芸術と言えば何をしても良いわけではない。
金はくれ、でも勝手にするしおまえの悪口だって言う、それが芸術だ
というのは可笑しい。
出資者を説得してこそ助成なのに、勝手にする、口を出されたら検閲だ、と言うのは大人としていかがなものだろうか。

そしてまた、抗議も表現のひとつである。
自分は好き勝手表現するが、ネガティブな感想は受け付けない
というのでは表現が広がらない。

 

あいちトリエンナーレは2016年にも問題を起こしている

そしてあいちトリエンナーレは2016にも”炎上”していることを付け加えたい。

私自身当時Twitterで言及している、『飛び舞う鳥のもとで、人は何を想うか』をテーマにした《フーガ(Flight)》という展示である。
生きた小鳥を展示しているのだが取り扱いが杜撰で、
鳥の種類に適さない餌を空きビルの床、酷いのが、使っていないとは言え便器の中に撒いており
鳥たちは衰弱して死んだ個体もあり、金網も不完全で隙間から飛んでいってしまっていた。
かつ、法律で取引禁止されていたコキンチョウを展示していた、
「会期中に鳥達の世代交代が起こる」と鳥が展示中に生き死にすることが折込ずみのコンセプトだったと読み取れる、などの問題があった。

 

「あいちトリエンナーレ」のいい加減な動物取扱責任者の選定
http://animals-peace.net/law/aichitriennale-bird.html/amp?__twitter_impression=true

 

当然この時の実行委員会会長も愛知県知事、大村秀章氏である。

 

芸術も言論も越えてはならない一線がある

結論としては、津田氏ご本人が言っている通りだと思う。
『一線を越えたヘイトは言論ではない』
一線を越えたヘイトだから、今回の表現は芸術ではないのだ。

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say

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