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キャラメルボックスの休止のニュースを聞いて考えたこと ~推しは推せるときに推せという理論~

キャラメルボックスの功績

自分は元々芝居が好きだったので、観劇に抵抗はないが
芝居に触れたことがない人を観劇に誘うのは抵抗がある。
一言で言えば、一般の人はひいてしまうのでは、と思うからだ。
一度見えてしまえば生身の人間が舞台という限られた枠の中で
生で演じてくれることの魅力は感じてもらえると思うのだが
演劇もジャンルによりけり、好き嫌いもあると思う。
演劇が好きな自分でもひいてしまう芝居もある。

失敗してもいいや、と割り切るには、芝居のチケットは高価だ。
演じる側のコストを考えれば基本的には妥当な額なのだが
映画の1800円ですら高いと言われるくらいなのに
1万円前後となるとどうしても高い。

そして、公演情報もかなり能動的に動かないと得られにくい。
映画ならまだサイトや情報誌も充実しているし、テレビなどでCMもある。
映画自体テレビで放映されることもある。
芝居はというと、テレビでも中々やらなくなったし
CMも深夜帯だったり
有名な芸能人が出る舞台しかやらなかったりする。

そんなハードルを越えて観に行っても、
初めてだと作法がわからないこともある。
古参ファンに常識だろうと言われてしまうとトラウマになりそうだし
実際周囲でそんな話はちらほら聞く。
経験者に誘ってもらって行くのが一番安全なように思う。

とは言え、誘う側としても、チケット代は結構悩むところ。
その点キャラメルボックスが有難かったのは、ハーフプライスチケット。
当日空席の一部を半額で販売してくれた。
他にも、夏公演なら浴衣割引など面白い割引をしていた時期があった。
学生割引もあったし、学校の演劇部が団体で見にきやすい環境作りもあった。

時間もそうで、途中休憩ありで何時間もあると
特に慣れていないと疲れたり飽きたりしてしまう。
この点でも、キャラメルはハーフタイムシアターとして
1時間程度で見られる芝居をしてくれたし、
フルのお芝居でも2時間程度なのもありがたかった。

演劇業界を盛り上げようとしている様子が伝わってきた時期もあったのだ。
会社を立ち上げてそこでアルバイトをしながら劇団公演に参加したり
お弁当を支給して少なくとも稽古場に来れば一食は食べられるようにしたり
芝居をやる=貧乏という概念を破ろうとしてくれていたと思う。

選曲も面白かったし、時代劇にロックやボップスなどを合わせるのは
当時中々新しい試みだった気がする。
解散したバンドの曲を使った芝居も、
今一番良い音質であの曲を聴けるのがこの芝居という言い草が
本当にそうだなと思ったし、
実際観に行ったときライブ並の爆音に感動もした。

劇団というあり方と時代の流れ

劇団なら、公演には所属している団員は基本的に出演するし

稽古の時間も多く取れる。

普段から一緒にいるからチームワークもできている。

それは劇団公演の良い所である。ただ逆に言えば、劇団員は劇団に拘束される時間が長く

他の仕事を入れにくいし、劇団の仕事だけでは食べていけないのに

突発で休んだり数ヶ月で休んだりするから中々良いバイトも見つけられない。

外の環境に触れず閉鎖された環境にこもっていれば、

馴れ合いになり成長も見込めないことにもなり得る。

モデルケースとして、理念として掲げたキャラメルボックスは

デメリットをカバーできるかのように見えた。

それでもうまくいかなかった、というには、

最後の方で運営のやり方がまずい方に凝り固まっていったように

自分には見えるので少し違うとは思う。

ただそれを差し引いても、劇団の運営というのはやはり難しいと思う。

ユニット名として残しておいて、各自が活動する方が

特に今の時代は合っているのではないだろうか。

寂しいように感じるけれども、時代の流れ的に

無理だということなのかもしれない。

選択肢の多いこの時代の中で人は観たいものを観る。

プロデュース公演の方が面白いものが多くて有名な人が出ていて

演出も良いというならやはりそっちを見るだろう。

劇団公演でも面白ければ観るだろう。

今の時代、役者だからといっても

芝居だけで生きていけている人というのは多分とても少ない。

インターネットなどの普及で発信も受信もしやすくなり、

プロとアマの境目もとても曖昧になってきている。

作家でも自分が出した本の売り上げだけでは食べていけないのが

珍しくなくなってきた。

昔はプロと言えばそれで食っていける人という感じだったが

もう多分、そういう時代ではないということなのだ。

芝居なら芝居さえできればいいという時代でもなくなってきた。

いろんなことができなければ、

どんな業界でも生き残れない時代なのかもしれない。

推す方にも理由がいる

推しは推せるときに推せ。
自分自身これは思っているし、今までも発信してもきた。
大人になるまでの過程で、
ライブに行けないまま解散したバンド
見に行けなかった公演などの類は少なくない。
いつ何があるのかわからないのが人生でもあるし
声はあげないと届かない。
応援しているなら、応援していると伝えなければ
推しが活動をやめてしまうこともある。

商業でやっているならたとえば漫画も一巻の売上の初動が大事だし
どんなに連載は面白くて隠れファンがいたとしても
それが運営サイドに目に見えなければ不人気として打ち切られる。
アマチュアの人で儲けも度外視でやっているような人なら
尚の事「あなたの作品を楽しみにしています」という声がなければ
身銭を切って本やCDを出そうをは思えなくなる。
だからこそ、推しは推せるときに推すべきなのだ。
これは大前提だ。

だが、こちらにも事情がある。
お金や時間、労力などのコストがかかるのは、推す側も同じなのだ。
良いものができたのでみんなに見て欲しい、と宣伝してくれるのは構わない。
というより寧ろどんどんやって欲しい。
ただ、推してくれないと活動やめちゃうよと推される側が言うのは
少し違う気がする。
お客様は神様だという言葉を客サイドが言うことや、
悪気があったわけではないですから、と加害者側が言うことと同じように
推しは推せるときに推せというのも推される側が言うのは違う。
推す側が言う言葉ではないのだろうか。

なぜなら、推したい推しなら言われなくても推しているからだ。
推していないのには理由がある。
それは、単に活動していることの周知が足りていないというケースもあれば
そもそもろくに活動していなくて推そうにも推せないこともある。
たとえばニコニコ動画の実況者やYOU TUBERを推したいと思っても、
最終活動日が十年も前だったら周りに薦めづらい。
移り変わりが激しい現代、常に更新されていることは重要だ。

更新されていない、活動はしているけど面白くない。
昔からのファンだから見ていても楽しいけれど
新規にはわからない内輪ネタばかりをするとなると布教できないし
しても相手は好きになってくれない。
それでも推そうというとき、それは良いから推すのではなく
同情や内輪意識だ。

本当に良いと思って薦めるのと、
内心そこまで良いと思っていないのに薦めるのとでは大違いだ。
薦められた側に伝わる情報量も質も絶対に違ってくる。
こっちは元々推したいのだから、
気持ちよく推させてくれよと思う。

ファンとして望む活動再開

無邪気に休止するだけだという言葉を信じることはできない。

それでもキャラメルが好きだったものとして
本当に再開してくれたらこれほど胸熱な展開は無いと思う。
そんなことになったらまた公演を観に行くだろう。

でも、その公演がつまらない、やっぱり変わっていないと感じてしまったら。
多分もう二度と行かなくなるし、
キャラメルが好きだとも言わなくなってしまう気がする。

本当にキャラメルボックスが好きだった。
純粋に好きなままでいたかった。
もし活動再開した暁には、好きでいて良かったと思わせて欲しい。
これが、今の時点で言える心からのエールなのだと思う。

追記

これを書いた後、破産報道がありました。

初めから諸事情じゃなく正直に言って欲しかった。

やっぱり夜逃げだし誠意がない。

ひどい最後だと思います。

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