友が、「最近イメージ力のない人が多い」と言っていて。
それは自分も感じているところなので、気になっている。
AIRの Liberal という曲に
想像力さえなければきっと恐いものなどないと同じ
という歌詞があるのだが、多分これなのだと思う。
全てが夢の中の出来事のようで実感がなく、リアリティーを感じられない。
嬉しいことも薄く感じるし、普通なら怖いと思うことも平気でできてしまうのは
諸刃の剣だ。
重力ピエロという小説がある。
この中のある登場人物を
映画版では渡部篤郎さんが演じていた。
この人物が一言で言うなら救いようのない悪人で、
他人への思いやりがあれば他者を害することなどできないのでは
という旨の会話の中で
「悪いけど、俺は想像力の塊だよ」
「相手の気持ちを想像して、自分の苦しみに変えるなんて
それこそ想像力が足りてないだろ?」
だから被害者の気持ちになることはない、加害することに躊躇がない
嫌な思いをするのは自分ではないからやりたいことをやる
という台詞を非常にいやらしさ満点で演じておられて
思い返すだけで気分が悪くなるレベルなのだ。
(褒め言葉です)
想像力、イメージ力というのは、なんなのだろう。
ある人とない人はお互いに相手の感覚が相容れないものなのかもしれない。
2015年度の新入社員のタイプは「消せるボールペン型」などと話題になったことがあったが、
指導者世代の普通と新入社員世代の普通が違っているから
普通の指導が熱血、うざい、しつこい、きついと受け取られるのではないかと思っていた。
これも、想像力が関係しているのかもしれないと思う。
最近の若い人は物怖じしないなとよく感じる。
悪く言えば怖いもの知らず。
物怖じせずぐいぐいいくし発言するし、それで動かせるものは多い。
反面、やってはいけないことでも平気でやってしまい
取引先に失礼を働いたり、危機管理ができず危ないことに首をつっこんだりもしてしまう。
若くない人としては、なんでそれをやっちゃ駄目だと思わなかったのか、
事前に考えたらわかるよね? と思ってしまうのだが
思わなかったものは仕方ないのである。
年齢差もあまり気にしていないと感じる。
自分だと2歳くらいならまぁ同年代として、仲良くなればタメで接しても良いかなと思うのだが
若い人だと十歳前後の差は気にしていないように感じる。
飽く迄も私自身の周囲にいる、私より若い人は、ということだが。
失礼があってはならないとへりくだりながら
「失礼ながら申し上げます」
とこっちがやっている間に、若い子はあっさりと
「おじさんこれでいいよね!」と切り込んでしまう。
それがハマれば強い。話も早いし気に入られることもある。
ハマらないと取り返しのつかないことになる。
因みにこの『取り返しのつかない』というのも、なかなか伝わらない。
総合して、イメージ力がないからそうなるのでは、とも思うのだ。
たとえばTwitterでも、”インターネット老害”であれば真っ青になるような
顔写真、住んでいる場所、通っている高校、バイト先などの情報を
平気で公開してしまう。
もちろんデジタルネイティブ世代がそうしていてそれが普通になるなら
この先それがネットの常識になるので、我々はまさに老害であるが
ひとまずおいておくとして。
仲間内だけで「今日何時待ち合わせー?」とかやるのであれば
他にLINEなりSkypeなりFBなりツールは山程あるし
どうしてもTwitterならDMを使うか鍵をかけるべきなのだ。
もし個人情報を載せたことで悪用されたら。
自分はどんなに気をつけていても友達がバイトテロをやらかして晒されたら
自分がとばっちりで晒されることになる。
こうしたことは、想像力があれば思いつくことで、
それを避ける為に個人情報をネットに晒さない、という結論が導き出されるのではないだろうか。
個人情報を晒すことで「私も近所に住んでる」「マジで!」と
友達が増えることもあるのだが
インターネット老害世代としては、ストーカーなどの犯罪に巻き込まれる恐怖の方が勝ってしまう。
想像力が無いことで、物怖じせず飛び込めるのは良い点なのだが
ネガティブな方向に進むのはよろしくないわけで。
二十代の若者に訊いてみたが、アラトゥエの人たちに対して
私と同じような印象は持っているらしく。
なぜ”最近の若い人”は想像力が無いのだろうか。
本を読まないから。ググればすぐに出てくるから。
疑似体験が簡単過ぎて実体験が少ないから。
あたりが理由なのではなかろうか。
自分の経験則では、確かにこの人は頭が良いなと思う人は
漏れなく読書家である。
反対に、正直「なんだこいつ」と思う人は本を読まないパターンだった。
本を読まない=頭が悪いではないので念の為。
想像力の低下は言語力が低下しているから起きることで
思考力も同時に低下しているのだと思うのだ。
おじさんおばさんが本を読めと無理強いするのには
一応理由はあるのである。
無文字文化は広がりにくく残りにくい。
言葉、そしてそれを形に残せる文字というのは
多分思っている以上に重要なツールなのだ。
日本語は雨の呼び名だけで400語を越え
花が咲いたり散ったりするときの表現もいくつもある。
多くの言葉があるというのは、それが生まれるだけの感受性があり
それが伝わり、広がり、使い続けられるからである。
想像力が欠如すれば、文明が終わりを迎えるのではなかろうか。
大袈裟に聞こえるかもしれないが、多分かなり重大な問題なのである。
と、活字中毒の自分は憂いている。