●型破りとはなにか

型破りを辞書でひくと、常識を超えた考えやふるまいとあります。
では一般から見て滅茶苦茶なこと、非常識なことををするのが型破りになるのかと言えば、けしてそうではありません。

歌舞伎役者の18代目中村勘三郎さんが、
「型があるから型破り。型が無ければ単なる形無し」と話したエピソードはよく耳にするかと思いますが、
歌舞伎に限らず『型』がある、型を重んじる界隈では
他にもいろんな方が同じようなことを仰っていますが
何十年、何百年と積み重ね受け継がれてきた型には意味があります。
その道の全てが詰まっています。何百年の重みが洗練され凝縮されたものが型です。
これを蔑ろにして新しいことをしても、それは型破りとは言えません。
単に本来の形を無視しただけの、新しい浅いなにか別のものです。
型を学んだ上でその上に積み重ねるからこそ型破りです。

そして型を破るからには、破り新しい物を創り出した者としての
責務も発生するかと思います。

型破りの『型』を『校則』に置き換えてみるとわかりやすいかもしれません。
ルールは守るもの。ルールを把握して守った上で、ルールの改訂を行いより良くすることは素晴らしい行為です。
また、ルールに反抗して従わないのも個人の自由です。
たとえば校則で制服のスカート丈が決められていたとして。
校則は守らなければなりません。
しかし、校則が制定された時代と今の時代は違うから、今の時代に合わせて5cmスカート丈をあげたところで”はしたない”には当たらない。エビデンスを集め検討を重ね、校則を改訂する。そうすれば、晴れて短い丈のスカートを堂々と穿くことができます。

校則が改訂されていない状態で短いスカートを穿けば、それは校則違反です。それでも短いスカートを穿きたいのなら、それは個人の自由。
それによって先生に怒られたり、先輩から「校則を守っていない」と目をつけられたり、外を歩いていて「不良だ」と思われたり、それにより自分のせいで母校の評判を傷つける可能性があるということは覚悟する必要があります。
短いスカートを穿きたいけど怒られたくもないというのはただの我儘です。

ダサいと思っていてもルールを守って規定の長さのスカートを穿く。たとえ色眼鏡で見られようとも、短いスカートを穿く。それはどちらも覚悟と決定を経た行為です。

●逆さごとという『型』

ご飯を食べるとき、ご飯茶碗とお汁(つゆ)のお茶碗をどのように置きますか?
なにか事情がなければ、基本的にはご飯が左側、お汁が右側かと思います。

先日、
『ご飯の写真をネットに投稿したら、お茶碗の位置が逆だと言われた。おちおちご飯の写真も投稿できない』
という意見と、それに対して
『そんなの個人の自由なのにね』
というリプライがついていたのを見かけました。
私は、これは違うと思います。

飯碗を右に置くのが何故『逆』とされるか。
飯碗は『通常』左に置くものだからです。
『通常』と違うことが何故『良くない』ことになるのか。
飯碗を右、汁椀を左に置くのは亡くなった人への作法だからです。

これは逆さごとと言って、良くないことが起こったときは
全てを普段と逆にします。
着物の合わせを逆に着せたり、屏風を逆さに立てたりします。
帯締めの向きや水引の形や向きもそうです。
お葬式のようなあってはならないこと、もうあって欲しくないことを
『通常』とは違うことをして特別なものにし、日常から切り離します。
それが日本の文化でした。

「自分は左利きだから」「こっちの方がなんとなく好きだから」
と飯碗を右に置くこと自体は別に良いと思います。
ただ、本来は左であることとその理由を把握した上でなければなりません。
知らずにやっていたなら、「逆ですよ」と言われたら
理由を学ばなければならないと思います。
知っていてやっていたなら、「そうですね。わかってるんですけど自分はこういう理由で云々」説明すれば良いこと。
写真は載せたいが「逆だ」とは言われたくない、しかし写真投稿時に一筆添えることも嫌。
「個人の自由」と切り捨てるものではないのです。

●個人の自由と協調は両立しないのか

『個』が重要視され出したのは、近代以降のことです。
より正確に言うならば戦後ということになるでしょう。
語弊を恐れずに一言で言うならば、敗戦国だからこうなったのです。

個性を重視する、それ自体は悪いことではありませんが
古来からの日本人の民族性のひとつである協調性を
同調圧力として悪しきものと
一切合切を切り捨ててて批判することには疑問を覚えます。

周りに合わせることは個性を埋没させ通り一遍のロボットを作り上げる為のものにあらず
不要な争いを避けお互いが快く過ごす為の心配りです。

たとえば、昔は左利きであっても右利きに矯正されました。
時折創作で左利きの武士が右腰に刀を佩びる設定を見かけますが
実際にはありえません。
刀は左腰に佩くものです。
なぜか。
佩く側がばらばらであれば、通行中にぶつかる可能性が高くなるからです。
筆を右で持つのも、寺子屋の長机で揃って右に持っていれば
肘がぶつかって硯がひっくり返るトラブルを避けられます。
箸を持つのが右であるのも同様です。

個性を重んじるようになったのは、
敢えて言い切るならアメリカの影響です。
伝統や文化を重んじていたなら、近代日本の有り様はまた違っていたはずです。

何をするのも個人の自由ではありますが、そこには責任というものが発生します。
また、常識とは違うことをすることで発生する様々な問題についても理解しておく必要があります。
好き勝手したい、文句は言われたくない、では成り立ちません。
今までの常識になかった事をすることと、人に迷惑をかけないことは相反しません。
やり方によって十分両立できるものと考えます。

●文化というもの

茶碗をどっちに置くかぐらいどうでもいい。そんな些細なことで。
と思うかもしれません。
しかし、こういうとことから文化は失われていきます。
単なる茶碗の置く位置の話ではなく、これは日本文化の話なのです。

もちろん茶碗の話に限ったことではありません。
階段に座り込む、鞄を机の上に平気で置くというのも、
上下の区別を考えて生きていた本来の日本文化が失われつつあるからです。
神社や城郭の階段で、人の迷惑や神様の通り道も鑑みず
座り込む人がいるのも、これも上下のうちでしょう。
神棚を上に設置する、殿から頂いた物を頭の上で押し頂く。
この感覚が失われてきているのです。
御朱印を転売したり、それを購入したりする人が存在するということも同様でしょう。

ご飯を食べるときの「いただきます」は
金を払っているのだから言う必要がないという妄言も
命や人への感謝が失われているから出てくる発想です。
飯碗に米粒を残すことが平気なのも同様で、綺麗に食べることを
「けち臭い」と貶す人すら出てくる時代です。

成功主義型で個を重んじるあまり地域が薄まっており、
実態は個人意識が発達して量産型の人間が増えているだけという
人生論ノートで三木清氏が述べていたことを思い出します。

個人の自由と我儘、ルール違反と型破りを履き違えないよう
今一度自覚したいと思います。

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