佐藤流司くんがタイトルが面白そうだから読みたいと言っていたこともあり、読んでみた。
全体的に細かい伏線とその回収が見事で、テーマも一貫していて短編が収束していく感じが気持ちが良い。
決めつけて偉そうにする奴はどこにでもいる。
そういう奴らに負けない方法があるんだよ。
『僕はそうは思わない』この台詞
と安斎が加賀に言うシーン。
口に出せなくても心で思うだけでも大事。
絶対に受け入れたら駄目だ、というのが響いた。
思うだけで『勝てる』ことはない時もあるだろうが
それでも思わないよりは違ってくる気がする。
力で言うことを聞かせるのはある意味力を持っているなら簡単だろう。
でもそれだと、力が自分に無い時には言うことを聞いてもらえないことにもなる。
迷惑をかける、言うことを聞かない人間に対して
「心の中でそっと思っておくといい。可哀想に、って」
という久保先生の言葉。
「もちろんこ のクラスにはそんな人間はいないけれど」 といいう久保先生の念押しは、皮肉が効いている。
「悪いことをすれば法律で罰せられるけど、法律やルール ブックには載っていないこともたくさんある。 人が試されることはだいたい、ルールブックに載っていない場面なんだ。 」
というのも印象的。
磯憲の”正真正銘のでたらめ”な占いで「未来のおまえは笑ってる」というのもとても素敵だった。
「そんな自分勝手なプレイは許さないからな。俺の言う通りにやればいいんだよ」
という選手を自分の駒だと勘違いしている言い草は腹が立つものの、
ギャンブルはするな、と説くコーチも、間違っている訳ではない。
磯憲も言うとおり、無理せず地道に真面目にやる方が強い。
「だけどもし、試合中、次のプレイで試合の流れが変わると信じたら、その時はやってみろ。それはギャンブルじゃなくて、チャレンジだ。試合は俺や親のためじゃなくて、おまえたちのものだ。 自分の人生で、チャレンジするのは自分の権利だよ。
「うまくいかなかったら、後でみんなに謝ればいい。 失敗したらコーチの俺のせい、成功したら 君たちの力だ」
と言ってくれるところに感動した。しみじみ、良い言葉だと思う。
駿介が「少し自由にプレイしただけで、万引きしたかのように怒られる」
というのが悲しい。そうして数多くの天才が、実際人知れず葬られているのだろう。
匠の言う 「よっぽど凄ければ自由にプレイしてもいい」という面もあると思う。
有名になれば口を出す人も少なくなるケースは多いはず。
効率的だから、指導者は型に嵌めようとする。
「抽象的な言葉を大声で叫んで怒るのは、独裁者の手法」というのが興味深い。
具体的な理由が分からず、恐怖を与えられると、次からはその人の顔色を窺うしかなくなる。
フィクションと違って勧善懲悪でめでたしめでたし、で現実は終わらない。
犯人が刑務所に入れられて一生、出てこられないなら兎も角として
社会に戻ってくるなら、異常だと切り捨てるよりも
できるだけほかの人が平和に暮らせる方法を考えたほうがいい。
その人が幸せじゃないと、結果こっちが困ることになる。
ならどうすればよいかと言えば、難しくて、優しくしてあげる必要はないし、
仲良くなるわけにもいかないから、駄目なんだ、と。
答えを見つけたら教えてくれ、という磯憲の言い草がフェアな感じで好きだ。
子供が大人に不条理に怒鳴られていても、
自分が子供の頃はもっと厳しかった、なんて武勇伝みたいに言って
もっとがつんとやってくれて構いませんから、なんて言う親は嫌な感じだ。
自分が嫌だったことを、下の代にもやるのは非常にナンセンスだと思う。
体育会系の空気が自分は嫌いなのだが、その大きな理由のひとつが
この山本コーチのような人間の存在だ。
相手を怒鳴りつけて萎縮させ、「はい」と言わせる。
「本当に教えたいなら、大声を出す必要はないよ。見せしめにしたいだけで」
というのは全くそのとおりだと思うし、こういう人間がいるということは
別にスポーツやったところで、人間性が鍛えられる訳ではないといいう見解にも頷いてしまう。
そしてこれはどんな分野でも言えることで、強かったり上手かったりすれば、威張れる。
そして「試合に集中していれば怪我をしても痛くない」なんて不条理なことを言い出す。
ここが伏線になっていて、あとでちょっと意趣返しがあるのは面白い。
磯憲が「バスケの世界では、残り一分を何というか知ってるか?」
「永遠、永遠だ。」
と恥ずかしそうに言うのが良い。
バスケの最後の一分が永遠なんだから、俺たちの人生の残りは、余裕で、永遠。
無茶苦茶な理屈だけれど、子供相手に適当に正しいことを言って煙に巻くのではなくて対等な感じがする。
犯人を目の前にして、駿介が
「最後、足引っ掛けちゃったから、アンスポだったかな」
と言うのが中々すごい。
男が好きでこんなことをしたわけではないと判断し、
「ごめん、アンスポだったわ」 と謝罪する。
”ああ、そうだ。 もしアンスポーツマンライクファウルだったら、相手はフリースローが与えられた上で、さらにリスタートの権利がもらえる。 そのことを僕は、男に伝えたくなった。”
逆ワシントンのお母さんの発言は色々と面白い。
フィクションで、実は運動ができるとか親が有名人とか何か特別なことがあって、
逆転できるパターンが多いけれど、普通の多くの人はそんなものを持っていないからひっくり返せない。
そういう”特別”がなくても、みんなに認められる方法がある。
「たとえば、「あいつは約束を守る奴だ」とか」。
確かにそれで信頼される部分はある。
漫画のようなスカッと逆転というわけにはいかないだろうが、地道な積み重ねで得るものはあるはずだ。
学校で子供たちに対して
「誰かを馬鹿にして、いじめることは本当にやめたほうがいい」理由として、
その子が可哀想だから、ではなくて、人間は人が困っていると楽しいと思うものだから、
だからこそそれだけの理由でいじめをして人生を台無しにするな、というのが面白い。
よくある相手の人生を台無しにするなという良心に訴えるものではなくて、
もし自分がいじめられっこだったら、
大人になって成功したらいじめっこをきっと告発するという脅しとも言えるものなのである。
”男の怒る言葉が一向に終わらないため、だんだんと僕は、ストレスを発散したいだけなのでは ないか、と感じはじめた。自分よりも弱い相手を、ボクシングのサンドバッグのようにしたいのではないか、と。”
相手が子供で悪いことをしたと思っていることを良いことに
土下座を強要する。
実際問題、女子供など自分より弱いと思う相手に対してそういう態度を取る人間はいる。
ワシントンのように正直に言ったばかりに酷い目に遭う。
ワシントンはまだ斧を持っていたから怒られなかったという笑い話は
意外と真実を突いているのだろう。
磯崎先生、とても素敵な先生だったのだろうなと思う。
確かに子供を主人公にすれば、子供視点で描く訳だから
洞察力や語彙力も大人に比べれば低いことが多く
執筆が制限されるし、子供向けの本だと思われるというのはなるほどと思う。
教訓話や綺麗事にされてしまうのも何だ。
自分の中にいる夢想家とリアリスト、そのどちらもがっかりしない物語をと試行錯誤した結果がこの短編だとのこと。
野球選手になり約束のサインを送り
人生に疲れた人が全うに生きようとする。
さりげなく書かれた事柄を理解できたとき
カチリとはまる気持ちよさとともに感動が押し寄せる。
非常に面白い小説だった。
全体的に細かい伏線とその回収が見事で、テーマも一貫していて短編が収束していく感じが気持ちが良い。
決めつけて偉そうにする奴はどこにでもいる。
そういう奴らに負けない方法があるんだよ。
『僕はそうは思わない』この台詞
と安斎が加賀に言うシーン。
口に出せなくても心で思うだけでも大事。
絶対に受け入れたら駄目だ、というのが響いた。
思うだけで『勝てる』ことはない時もあるだろうが
それでも思わないよりは違ってくる気がする。
力で言うことを聞かせるのはある意味力を持っているなら簡単だろう。
でもそれだと、力が自分に無い時には言うことを聞いてもらえないことにもなる。
迷惑をかける、言うことを聞かない人間に対して
「心の中でそっと思っておくといい。可哀想に、って」
という久保先生の言葉。
「もちろんこ のクラスにはそんな人間はいないけれど」 といいう久保先生の念押しは、皮肉が効いている。
「悪いことをすれば法律で罰せられるけど、法律やルール ブックには載っていないこともたくさんある。 人が試されることはだいたい、ルールブックに載っていない場面なんだ。 」
というのも印象的。
磯憲の”正真正銘のでたらめ”な占いで「未来のおまえは笑ってる」というのもとても素敵だった。
「そんな自分勝手なプレイは許さないからな。俺の言う通りにやればいいんだよ」
という選手を自分の駒だと勘違いしている言い草は腹が立つものの、
ギャンブルはするな、と説くコーチも、間違っている訳ではない。
磯憲も言うとおり、無理せず地道に真面目にやる方が強い。
「だけどもし、試合中、次のプレイで試合の流れが変わると信じたら、その時はやってみろ。それはギャンブルじゃなくて、チャレンジだ。試合は俺や親のためじゃなくて、おまえたちのものだ。 自分の人生で、チャレンジするのは自分の権利だよ。
「うまくいかなかったら、後でみんなに謝ればいい。 失敗したらコーチの俺のせい、成功したら 君たちの力だ」
と言ってくれるところに感動した。しみじみ、良い言葉だと思う。
駿介が「少し自由にプレイしただけで、万引きしたかのように怒られる」
というのが悲しい。そうして数多くの天才が、実際人知れず葬られているのだろう。
匠の言う 「よっぽど凄ければ自由にプレイしてもいい」という面もあると思う。
有名になれば口を出す人も少なくなるケースは多いはず。
効率的だから、指導者は型に嵌めようとする。
「抽象的な言葉を大声で叫んで怒るのは、独裁者の手法」というのが興味深い。
具体的な理由が分からず、恐怖を与えられると、次からはその人の顔色を窺うしかなくなる。
フィクションと違って勧善懲悪でめでたしめでたし、で現実は終わらない。
犯人が刑務所に入れられて一生、出てこられないなら兎も角として
社会に戻ってくるなら、異常だと切り捨てるよりも
できるだけほかの人が平和に暮らせる方法を考えたほうがいい。
その人が幸せじゃないと、結果こっちが困ることになる。
ならどうすればよいかと言えば、難しくて、優しくしてあげる必要はないし、
仲良くなるわけにもいかないから、駄目なんだ、と。
答えを見つけたら教えてくれ、という磯憲の言い草がフェアな感じで好きだ。
子供が大人に不条理に怒鳴られていても、
自分が子供の頃はもっと厳しかった、なんて武勇伝みたいに言って
もっとがつんとやってくれて構いませんから、なんて言う親は嫌な感じだ。
自分が嫌だったことを、下の代にもやるのは非常にナンセンスだと思う。
体育会系の空気が自分は嫌いなのだが、その大きな理由のひとつが
この山本コーチのような人間の存在だ。
相手を怒鳴りつけて萎縮させ、「はい」と言わせる。
「本当に教えたいなら、大声を出す必要はないよ。見せしめにしたいだけで」
というのは全くそのとおりだと思うし、こういう人間がいるということは
別にスポーツやったところで、人間性が鍛えられる訳ではないといいう見解にも頷いてしまう。
そしてこれはどんな分野でも言えることで、強かったり上手かったりすれば、威張れる。
そして「試合に集中していれば怪我をしても痛くない」なんて不条理なことを言い出す。
ここが伏線になっていて、あとでちょっと意趣返しがあるのは面白い。
磯憲が「バスケの世界では、残り一分を何というか知ってるか?」
「永遠、永遠だ。」
と恥ずかしそうに言うのが良い。
バスケの最後の一分が永遠なんだから、俺たちの人生の残りは、余裕で、永遠。
無茶苦茶な理屈だけれど、子供相手に適当に正しいことを言って煙に巻くのではなくて対等な感じがする。
犯人を目の前にして、駿介が
「最後、足引っ掛けちゃったから、アンスポだったかな」
と言うのが中々すごい。
男が好きでこんなことをしたわけではないと判断し、
「ごめん、アンスポだったわ」 と謝罪する。
”ああ、そうだ。 もしアンスポーツマンライクファウルだったら、相手はフリースローが与えられた上で、さらにリスタートの権利がもらえる。 そのことを僕は、男に伝えたくなった。”
逆ワシントンのお母さんの発言は色々と面白い。
フィクションで、実は運動ができるとか親が有名人とか何か特別なことがあって、
逆転できるパターンが多いけれど、普通の多くの人はそんなものを持っていないからひっくり返せない。
そういう”特別”がなくても、みんなに認められる方法がある。
「たとえば、「あいつは約束を守る奴だ」とか」。
確かにそれで信頼される部分はある。
漫画のようなスカッと逆転というわけにはいかないだろうが、地道な積み重ねで得るものはあるはずだ。
学校で子供たちに対して
「誰かを馬鹿にして、いじめることは本当にやめたほうがいい」理由として、
その子が可哀想だから、ではなくて、人間は人が困っていると楽しいと思うものだから、
だからこそそれだけの理由でいじめをして人生を台無しにするな、というのが面白い。
よくある相手の人生を台無しにするなという良心に訴えるものではなくて、
もし自分がいじめられっこだったら、
大人になって成功したらいじめっこをきっと告発するという脅しとも言えるものなのである。
”男の怒る言葉が一向に終わらないため、だんだんと僕は、ストレスを発散したいだけなのでは ないか、と感じはじめた。自分よりも弱い相手を、ボクシングのサンドバッグのようにしたいのではないか、と。”
相手が子供で悪いことをしたと思っていることを良いことに
土下座を強要する。
実際問題、女子供など自分より弱いと思う相手に対してそういう態度を取る人間はいる。
ワシントンのように正直に言ったばかりに酷い目に遭う。
ワシントンはまだ斧を持っていたから怒られなかったという笑い話は
意外と真実を突いているのだろう。
磯崎先生、とても素敵な先生だったのだろうなと思う。
確かに子供を主人公にすれば、子供視点で描く訳だから
洞察力や語彙力も大人に比べれば低いことが多く
執筆が制限されるし、子供向けの本だと思われるというのはなるほどと思う。
教訓話や綺麗事にされてしまうのも何だ。
自分の中にいる夢想家とリアリスト、そのどちらもがっかりしない物語をと試行錯誤した結果がこの短編だとのこと。
野球選手になり約束のサインを送り
人生に疲れた人が全うに生きようとする。
さりげなく書かれた事柄を理解できたとき
カチリとはまる気持ちよさとともに感動が押し寄せる。
非常に面白い小説だった。