戦争の対義語は平和?

小学校1年生だったろうか。
国語のテストで戦争の反対の言葉はという問いに
いくら考えても答えがわからなかった。
もしかしたら平和かな、と思ったけれど、そんな訳はないと打ち消した。
テストなのだから違うと思っていても書けばよかったのに
馬鹿正直に空欄で出して✗をもらった。
横に赤ペンで書かれていた答えは平和だった。

確かに辞書を引けば、対義語として平和が出て来る。
平和の意味は、

戦争や紛争がなく、世の中がおだやかな状態にあること。
心配やもめごとがなく、おだやかなこと。

goo国語辞書 https://dictionary.goo.ne.jp/jn/198518/meaning/m0u/

しかし、戦争が無ければ穏やかになるのか。
幼い私は疑問だったし、今でも疑問だ。

戦争とは、色々細かい定義はあるものの要するに兵器や武力によって争うこと。
しかし戦争のイメージは、多分多くの人にとっては
”学校で習った第二次世界大戦”なのではないだろうか。

戦争体験は下方比較する為だけにあるのか

昨日は終戦記念日だった。
多くの芸能人がそれにSNSで言及していた。
それに対するリアクションに、若い女性と思われる
「日本は平和だから良かった、昔戦争をしたことがあるということを忘れず、
二度と戦争をしないでほしいし、今している国もやめて平和になってほしい」
という旨のものがあった。

多分、今の学校教育からいうと模範解答であり、
戦争=第二次世界大戦=悲惨=二度と起こさない
というのも学校教育の賜物なのだと思う。

学校でこの時期戦争に関する映画などを見せられた経験が
私にもあるが、どれも若い人が嫌々戦争に駆り出されて
無残な死を遂げるというもので、正直飛び散る血のシーンしか思い出せない。

確かに『戦場』は悲惨である。
悲惨なものを悲惨なところだけ抽出して悲惨に見えるように作れば
それは悲惨に決まっている。
だが悲惨な目に遭っている人を見て、
「こうはなりたくない」と下方比較する為に戦争や歴史を学ぶのは
非常に狭量ではないだろうか。
学ぶべきは、一言で言うならば『人の想い』だと思っている。
その時どんな状況で、どんなこを考えてどんな想いでそこへ至ったか。
どうなって欲しかったか、その想いを受けて自分はどう考え行動するのか。

戦争にかかるコスト

戦争にはコストがかかる。
学校で習う平和教育だけでは、そうしたことは学ばない気がするが
何かをするということは何らかのコストがかかる。

戦争と経済の真実-戦争にはどのくらいの経費がかかるのか?
http://www.capital-tribune.com/archives/1

戦争を全否定する以外はタブーのような学校教育下で、
戦争の悲惨さは多くの人が知っていても、実情を知っている人は少ない。
世界標準の軍事の常識がわからない。

人類の初めての戦は旧石器時代と言われている。
狩猟に使っていた武器を転用していて、死者も当然夥しい数が出た。

最もシンプルな物理的暴力は殴る、蹴るだろう。
その威力を高める為に自分を鍛える以外には、やはり武器を使うことが近道だ。
不良漫画などでも椅子やバット、鉄パイプなんていうのは王道アイテムである。

時代が進むにつれ、狩猟道具も石から鉄に進み
戦に使われる道具も棍棒のようなものから弓矢、槍、刀と種類が増えていく。
鉄砲が持ち込まれ、大砲が作られ、近代化していくにつれて
武器もハイテク化していく。
ハイテク化していくとどうなるか。
コストが増大していく。

コストと言っても内訳は様々だ。
武器や防具の生産にかかるコストは勿論、
メンテナンスなどの費用もある。もちろん、人件費もある。

白兵戦が基本だった時代には、数がそのま勝利に繋がることも多く
百姓を集めて槍を持たせることも行われた。有効だったからだ。
だが、武器がハイテク化するとその操作に必要な訓練は複雑化する。
戦場へ行かず無人爆撃機をゲーム操作の要領でモニターに向かって操作することで
攻撃は出来てしまう。


現代の戦争において求められるのは高度なスキルや強固なチームワーク。
育成の為には時間も金もかかる。寧ろかけなければならない。
従って、素人から掻き集めてもただの邪魔でしか無い。

戦争はなにかを得る為に始まるものだろうが、
たとえば奪われた土地を取り返すのに絨毯爆撃や原爆を落としてしまえば
折角取り返してもその土地をすぐに使うことはできない。
つまり、コストに見合わない。
(現代ではピンポイント爆撃などもできるので、軍事施設だけを潰すのが当たり前になっているが)

得るものと失うものを天秤にかけて、失う物(コスト)が多ければ
『戦争』をする利点は無いわけだ。

本当に日本は平和なのか

戦争と言うのは主に物理的暴力を伴うものとされているが、
戦と争いという漢字を考えてみれば必ずしもそうとは言えない。
心理戦という言葉もあるわけで、
相手を倒し何かを奪うまたは取り返すために必要なのは
物理的暴力だけでは無い。

一言で言えば、『力』があれば良い。
場合によっては、『価値』と言い換えても良いかもしれない。

たとえば経済関係がうまくいっている国同士の場合、
戦争を起こして得られる利益より、紛争コストの方が高く、
結果戦争は起きない。

この場合の『戦争』は、我々日本人のイメージするような
戦争のことである。
そうした意味での戦争は、確かに日本では起きていない。
では、平和なのだろうか。

しかし、日本は脅かされているという記事はネットにも沢山ある。
真偽はわからないとしておくにしろ、
マスコミが乗っ取られているなどの説もあるし
竹島問題もある。
北海道は北方領土だけでなく様々な問題を抱えている。

驚愕の「北海道1000万人移民計画」 – 中国系移民が大多数を占めるカナダの街に日本の行く末を見た感じがする
https://eigokoro.com/columns/chineseimmigrants.html

他にもいくつもあるだろう。
報道されていないものも多い。
知っていても問題点を履き違えている人も多い。

日本は、平和だろうか。
土地が脅かされ、政治家やマスコミ、教育現場が乗っ取られているとしたら、
「今の日本は平和」というのはまやかしに過ぎない。
日本人がイメージする戦争は起きないままに、いつの間にか国が壊れていく。
それは、兵器が使われていないだけで、物を破壊する物理的暴力
つまり戦争なのではないのだろうか。
しかも、中々の低コストなのではないか。

国を守るということ

国という言葉に何故か嫌悪感を持つ人がいる。
そういう人は「自分の国が好き」と言うと何故か責め立ててくるが
国に国家権力とか戦争とかいった、自分の中の別のイメージを
くっつけているように見受ける。

お国言葉という言葉があるように、国とは生まれ育った場所のことだ。
自分は生まれ育った場所に愛着がある。
その土地を、そこに住む人を、そこから生まれた文化を、
すべてを愛している。
これは、国に問題が無い、パーフェクトな存在だというのとは
意を異にする。

場所の単位を、北海道人に対しては函館と言い
東京人に対しては北海道と言い、外国人に対しては日本と言う
その程度の違いであり、国に含まれている概念はさして変わりが無く、
私はこの国を愛している。
愛着があり、失われて欲しくない。
これは、自分が生きている間は勿論のこと、死んだ後の世界でも同じなのだ。
続いていって欲しい。遺されていって欲しい。

「国を守る」と言うと、軍隊の仕事というイメージも強い様子だ。
検索エンジンで検索すると、自衛隊や戦争関連の結果が目立つ。
だがそれは、国家という意味の国であろう。

私が思う守りたい国は、勿論国家としてもそうだがそれだけではなく。
簡単に言うならば文化や文明も含まれている。
個人的には、日本の本来の文明は明治維新により廃れてしまったと思っている。
それでも、変容しつつも文化と民族の特性は残っている。
それだけでも、残したいと思っている。

その為には、個人で何が出来るのか。
まずは知ることだと思っている。遠回りなようでも。
今日本に起きていること、過去に起きたこと。
本当にそうだったのか、人の意見やフィクションを鵜呑みにせず
できるだけ自分で調べる。

知った次に何をすべきか。
得た知識を人に話したり、着物を普段の生活で着たり
丁寧な言葉遣いをしたり、剣術を習ってみたり
写真を撮って魅力を伝えたり
地道で一見そうは見えないことでも、
回り回って国を守ることに繋がると信じたい。

そこには、想いがあるからだ。
なぜ着物はこんな形をしているのか。
どうしてこの川はここへ流れ着いてるのか。
戦おうと思った理由は。
必ずそこには、想いがある。そこに、人がいたからだ。
人がいるから、国がある。

これは、”平和”なこの国での個人ができる戦いなのだ。

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say

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