今までもmixiの日記にはぽろぽろ書いていたことと重複する部分も多々ありますが
twitterなどを見て思い立ったので、つらつらと書こうと思います。

私は、周りにヴィーガンやベジタリアンの人が何人かいます。
私自身はセミ・ベジタリアンです。
一人で食事したり選べたりする時は肉をとらない。でも、誰かと焼肉に行ったら食べます。お肉は正直美味しいし。血が滴る肉を見てうまそうだと思うのは動物の本能でもあると思います。

私は、世間一般から見れば動物愛護団体と言われるところに所属して活動しています。大したことはしていませんけど。
そして、あまり動物愛護が浸透していない日本では、愛護団体と言うとシーシェパードとかグリンピースみたいな、過激なパフォーマンスをする人と一緒にされがちですが、これは誤解で、みんなそれぞれ自分の信条に従って出来ることをしているだけです。
ウールの服を着ていたり、動物実験をしているメーカーの化粧品を使っていたら指摘されるだろうかとびくびくしていましたが、そんなことはありませんでした。
まともな人は自分の主義主張を押し付けるということがないからです。

ファミマのフォアグラ弁当の発売中止騒動 ネットでは行き過ぎた抗議に反発多数
http://huff.to/1e0NqrL
この件に関して、私は
抗議をしたとされるツイッタラーの言動には、正論を武器に振りかざす
自分に酔っているような気持ち悪さを覚えましたし
ああいうタイプの人たちが送り付けた動画はさぞかし残酷な編集だろうと思うので、
それを不用意に目にせざるを得なかった
客相の担当者の人が可哀想とも思いました。

一食材の製造方法が気に食わないから作るなというのは確かに個人のエゴです。
気に入らない、自分が食べたくないものは食べなければいいのです。
ただ、声を上げる理由は、知らない人が多いから。

私も学生の時に動物実験がなんたるかというとを知る前は
悲しいけれど必要な犠牲だと思い
見ないようにして逃げて来ました。
ですがきっかけがあって、学んでから
自分が酷い思い違いをしていたことを知りました。

よく動物実験反対と言うと、
なら殺虫剤を使うな、肉を食うなと言われます。
環境問題が相手だと、使うのを少なくしよう、無駄にしないようにしよう、やり方を考えよう
となるのに、動物愛護となると
何故100か0の選択肢を迫られるのか疑問です。
生きるために必要な、食肉であるとか薬の動物実験は仕方ない
ただし出来るだけ少ない犠牲に、
出来るだけ苦痛を与えない方法で。
どうしても必要ではないもの、代替が可能なものは代替品で十分ではないか。
こう主張しているだけです。

日本ではヴィーガンとして生きて行くのは物凄く大変です。
だから、その道を進んでいる人の
覚悟は凄いと思うし尊敬しています。
正直自分にはできないです。

学生の時に知ってから色々と勉強しましたが
食肉について
大概の意見では、食べても良い生き物として
魚か貝あたりが分かれ目になっています。
しかし、キャベツを切れば悲鳴をあげるとか、可愛いと声をかければ綺麗な花が咲くというように
植物なら痛みや感情が無く食べても良いかというと
私はそうだとも思えません。

ある小説で、人はなぜ肉を食うかという問答があります。
牛は食うが犬は食わないのはサイズの問題か。
豚は食えても情が移った豚は殺すのが辛いのは何故か。
知っているか知らないかが理由なら、
知らない人間なら殺すのか。

矛盾だらけです。
人は感情で生きる動物だから、それは当たり前。

件の抗議の「製造方法が残酷だからそれを使うな」という理由が勝手だ、
じゃあ肉食うな、殺虫剤使うな
という批判をいくつか見ました。
抗議していた人のやり口がどうもパフォーマンスくさくて共感出来ない点は私も同じですが。
残酷でも残酷じゃなくても、殺すから同じですか?
どうせ殺すのだから同じだから、残酷に殺してもいいですか?

衝動的な殺人事件と猟奇殺人と、同じ殺人だから同じに受け止めるでしょうか。
興味で人を殺して肉を食べてみた人と、
雪山で遭難して先に死んでいった仲間の体を食べてしまった人は
全く同じカニバリズムになりますか?

人によるでしょうが、私の答えはno。

美味しいご飯を食べ過ぎて太るのと、
無理矢理喉に棒を突っ込まれて美味しくない餌を胃に直接流し込まれて太るのと
どっちも駄目なのは大前提として
どっちかの手法で育て、殺し、食べなくてはいけないなら
私は前者がマシだと思う。
でも、フォアグラを食べなければ生きていけないわけではないから私はどちらも選ばない。

「感情論だ」
と言われれば、はいそのとおりです。
でも、感情で生きることのなにが可笑しいの?
好きだから好き、嫌いだから嫌い。
自然なことだと思う。

ファミマが弁当販売を中止したのは正直驚いた。
大企業があれだけの抗議に対応すると思わなかったから。
でも、
批判がくる可能性を視野に入れたか入れなかったかわからないけれど
販売を決めたのも
批判で中止にしたのもファミマが決めたことです。

フォアグラを使っていうのはファミマだけではないのに
ファミマだけに抗議するのは可笑しい
という批判は揚げ足取りだと思います。
全世界の全てのケースに抗議をするなんて
そんなことは不可能だから、自分が知ったことからだけでも抗議する。
それ自体は間違っていないと思います。

活動していると、人間が困ってるのに動物なんかどうでもいいと批判されることもありますが
人それぞれ出来ることをやるだけですし
パトカーが目の前のスピード違反者を捕まえるのと同じ事ではないでしょうか。
捕まった人は運が悪いと思うし他にも違反してるじゃないかと言いたいでしょうが
一台のパトカーが世界中のスピード違反者を捕まえられる訳ではありません。

前に毛皮を使ったUSBメモリが販売されて、
フェイクファーでも十分可愛いと思うと意見を送ったことがあります。
メーカーさんがとても誠意ある対応で、私としてはどうせ無視されて終わるだろうと思って送ったメールに丁寧に返事をくださり
毛皮について不勉強だった、フェイクファー使用に切り替えるという趣旨の回答がありました。

動物愛護活動を叩く人は、
そんなこと言っても今目の前にある毛皮はもう殺された成れの果てで
命は助かっていない。
ここにある毛皮は無駄になるのか、といってきます。
もう死んでしまった命は確かに戻ってきません。
でも、本当に啓蒙活動は無駄な行為でしょうか?

私は木を切り過ぎた場所に苗を植えるようなものだと思っています。
木が育つために何十年もかかる。この禿山はそれまで元に戻らない。
かと言って、植えなければずっとこのままです。

それから、同じに肉を食べるにしても、何も知らないで食べるのと
知った上で食べるのとは大違いだと思います。
銀の匙で八軒くんが今まで食べた豚肉と、ぶたどんの豚肉と、これから食べる豚肉の味は全部同じでしょうか?
私は違うと思うのです。

需要と供給が吊り合う限り、動物は殺される。
だからほうっておくのか。
一気になくなるものではないけれど
少しでも需要を減らそうと努力することの何が可笑しいのか。

同じ殺すのだから違いはない
1匹殺すも千匹殺すも同じかと言ったら違うはず。
環境問題と同じように
出来るだけ減らそうと努力しているだけです。
少なくとも私の知るヴィーガンたちは人に自分の主義主張を押し付けたりしませんから、
インディアンやイヌイットに野菜だけを食えとは言いません。

毎度こういう話になると
fullかzeroかの話にしてきたり
どうせ殺すのだから鳥肉用でもフォアグラ用でも同じとか
どうせなくならないから意味が無い
じゃあおまえは虫も殺すななんて話になったりするけれど
この問題の論点は
食物連鎖のヒエラルキーだとか、
ベジタリアンのエゴだとか、そういうことじゃなくて、
畜産と動物虐待の境界の話だと思うのです。

殺すから同じ、ではなくて
生きるために他の生命を手折る行為の中に
虐待が入っているのでないかというところが問題。
ただ殺すこと全てを愛護者が批判しているわけではありません。

事実を知らないでなんとなくで
だって食べないと生きていけない、と思い込んでいませんか。
フォアグラや熊胆で検索して調べてみて
それでも虐待ではないと判断するのであればそれはそれで仕方ないですが。

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say

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