リーディングミュージアム『東京方舟博覧記』
https://reading-museum.jp/hakuranki
感想

トータルでの感想
理由はよくわからないが、なんとなく苦手な場所というものがある。
空気が重かったり、景色が暗く見えたりしてなんだか嫌な気持ちになる。
後から調べると過去に何かあった土地でなるほどと思う。
上野もそんな場所のひとつだ。
初めて行ったときは無知で、無邪気に上野動物園に行ったのだが
なんだかずっと違和感があった。
歴史を勉強するようになって東軍に入れ込んでからは
上野に行って嫌な気持ちになるのも当然だと思うようになった。
今回の朗読劇は、そんな上野で行われる。
正直、発表されてすぐは一人でしかも夜の上野に行くのは
気が引けるなと思ったのだが、トーハクの成り立ちの物語というのは
トーハクが好きな自分としては興味もあった。
そして何より、彰義隊の隊士も出てくるというのが気になった。
本編で埴輪がいうとおり、きっちりした歴史物語でもない
曖昧さの中に史実が溶け込んでいることで、
実際こういうことが本当にあったとしても可笑しくない
と思わせてくれる作りは個人的に好みだった。
薩摩藩士でも、町田久成はまだしもと思っていたし
“名も無き”彰義隊の隊士が守ろうとして、
町田久成が未来につなげようとした、それが上野でありトーハクである
と思わせてくれたことで
自分の中に蟠っていたものが少し解けた様に思う。
野外でしかも夜に朗読の劇を鑑賞するというのは中々機会もないだろうし
第一弾と銘打っている訳だから今後の展開も是非期待したいと思う。
細かい感想
本編
現場には初日に行き、3日通しで配信を購入した。
以下具体的に内容に触れつつの感想を述べる。
台本を読みながら見比べると、思ったより違う。
OFFなど演出上の記載も違うので、初稿段階のものなのだろうか。
5人とも大好きな役者さんで嬉しい。
北村諒さんの役は予想外だったが、狂言回しをしつつ
他の役も笑いを入れつつこなしてくれた。
松田凌さんのお芝居を見るのは初めてではないのだが、
今回のお芝居が個人的には非常に刺さった。
良い意味で劇団っぽさがあるというか、シリアスさとコミカルさと
勢いがあって好きだった。
流司くんの役作りの仕方が毎度大好きなのだが、
今回は真っ直ぐな強さのある純粋な青年のように感じた。
本人ならここは語尾を上げて言うだろう台詞を
低く下げて言うなどの台詞回しがちょっと意外性があって好き。
たとえば「そうかい」の言い方の優しさ。
刀の話が通じると分かって、抑えきれない喜び方が愛らしい。
「……め、目貫も見るか?」と台本にある台詞のどもり方が自然だし
『?』に込められた感情描写が見事。
「もう来んじゃねぇぞ」の行間表現も素晴らしかった。
しかし酔っ払っての鼻歌はなぜ酒と泪と男と女なのか。
1975年の歌である。時代背景とも合わなければ
出演陣の誰も知らない古い歌だろうに。
脚本や演出の人が自分の年代しか知らないネタを出しがちなの
あまり良くないと思っている。
「おっはらう」という読み方に違和感があったのだが、
2日目は追い払うと脚本通りになっていたので、単に読み間違いだろうか。
民部省をみんぶんしょうと読んでいるようにしか聞こえず、引っかかった。
寛永寺のことに言及された時の「!……そう、だな。」や、
「密航した、平たく言えば留学だ」と言われた時の表情が良かった。
博物館を作ったら君にも是非見てもらいたいと言われて嬉しそうなのも可愛い。
「良いものは未来に受け継がれなければならないんだ」という台詞はすごく好きだった。
1日目、「方舟か」の台詞の前にマイクが切られていた気がして気になったが
2日目以降は普通に入っていた。
「刀が見たいだけだ」の表情も良いなぁ。
記憶がしっかりなくて、でも好きなことは覚えていて、
段々思い出してきて、というのを表情と言い方だけでここまで表現できるのは、
流司くんの中で青年の役の設定がしっかり練られているからだと思う。
2日目の博覧会を見ながらわちゃわちゃ同時に言うシーンで
「うるせえな書いてあるだろ順番が!」には笑った。
青年の辞世の句に合わせたかったのだろうが、
「花火のように光が散った」と光が散ることに花火を使うのは
ちょっと違和感があった。
打刀と脇差しでもないのに「大小二本差し」という表現も引っかかる。
高虎の「やめんか」と青年が斬り掛かったというはにわのナレーション、
台本と順番が逆だったが、台本のままの方が良かったのになと思った。
恋文を取り返そうとする時の流司くんと諒くんのお戯れ、
どの回も笑ってしまった。
1日目の「おれがおれを見失ってしまう」も品良く面白かったし、
2日目は完全に本を閉じられて流司くんの本を後ろから読んで、
笑って誤魔化しながらページを探しているのも楽しかった。
3日目にわざわざ屋根のないところに置かれるのも、
置いたほうの流司くんの台本の方がびしょびしょなのも笑える。
コミカルなやり取りを挟んでのシリアスという緩急が好き。
「おれはそういうのを守りたい」と自分の出した答えに
満足そうに言う青年の表情が良かったし、
「花火は墨田であがるもんだろ」の言い方が日によって違って
どれも違う辛さがあったのが流石だった。
戦いの中で追い詰められていく青年が切腹するシーンでは泣いた。
芝居を見てうるっとはきても泣くは結構久し振りだった。
こういう、戦いにも負けて何も守れずに進退窮まるという
よくあるヒーローとは違うある種の情けなさの表現が
ちゃんと上手いよなと思う。
「違う、違う、おれはただ」の言い方だったり、
台詞の無い時の表情も秀逸。
久成の「また話したい」の2日目の言い方がとても好きだった。
「刀が見たかっただけだ」以降の台詞も、
1日目の必死さより前向きさが強く出ている感じがして2日目が好きだった。
天海の「意思のないただの物として蘇らせていれば」は
ちょっと刀剣乱舞を連想してしまった。
明治維新で失われたものたちの影が、者も物も含まれているのが好き。
よくある表現だが、名もなき彰義隊士たちというのは酷いよなと思う。
みんな名前はあったのにな。
天海の「藤堂高虎!」という迫力の叫びに
「家康様は望んでおりませんぞ」と叫び返す高虎も恰好良かった。
一等好きだったのが「朝だ」の言い方。
夾雑物の少ない朝の空気、なにかが新しく始まる予感を
感じさせる響きのある台詞だった。
トーハクが開館したのが明治五年。
木村屋が木村屋という名前になり銀座へ移転してあんぱんを売り始めたのが
明治七年である。
最後のシーンが十年後ということなので、
明治天皇へ酒種あんぱんを献上して宮中御用商に加わり
ますます繁盛していた頃なのだろう。
このシーン、あんぱんを食べたいから銀座へ行きたい、で十分だったのに、
「木村屋へ」まで言わせたのは蛇足だった気がする。
少なくとも1日目の会場ではここで笑いが起こっていた何故なのだろう。
確かに微笑ましく思えなくもないシーンではあるが、
別に笑うところではないと思うのだが。
最後に再びタイトルが浮かび上がるのが良い。
この建物が方舟なんだなとしみじみ思った。
3日目、久成だけ帽子なのが良かった。話しながら取ったり被ったり
しているところも良い。
残りの3人は全員同じ竹笠なのは仕方ないけれど多少がっかりもしたが。
3日目の切腹までのシーンで、笠を取って雨の当たるところに跪いての
流司くんのお芝居が圧巻だった。
カテコ及びアフト
流司くんの着衣の乱れの直し方が、道着着慣れてる人だなと思う。
アフト初め、と言う流司くんのボケに楽しそうにしてる麻璃央くんも微笑ましい。
紹介無しで、と無茶振りしながらすごく楽しそうに笑っていて可愛かった。
好きな俳優さんとお芝居できたって話す涼介くんが、
劇中の天海様と同一人物とは思えないくらい
目を伏せてはにかんで本当に嬉しそうに言うのも可愛過ぎた。
1日目の博物館のエピソードトークで大加州刀展に言った話をする時、
流司くんが最初は普通に「大加州刀展っていう、」と話し始めたのに
わざわざ隣の凌くんに向かって「加州清光って刀知ってます?」って
訊いたのが悪戯っ子みたいで最高に楽しかった。
「知ってるよ、俺たちが一番知ってるだろ」の返しも良き。
諒くんが西洋美術館なのに博物館と言い間違えつつ話した時に
「印象派の」という相槌の打ち方がスマートな上、
しっかり「それ美術館じゃないんですか」と突っ込むところも流司くんらしい。
上野という地の全体のね、となんとかまとめるのも面白かった。
ただ、朗読劇が折角良い話なのに、
出演陣の誰もトーハクに来たことがないのはちょっと残念である。
松田凌さんが来てみたくなった、と優等生発言をしてくれたのは良かったが。
アフトや楽屋トークののんびりふんわりした空気感が楽しかった。
舞台側からはビル群が見えた訳だけど、ビルを見ながら
お芝居するのも素敵だったろうなと思う。
1日目の「決め台詞」でみんなきょどってて、会場も???ってなったの
ちょっと面白かった。
楽しかったーって叫んだあとめちゃくちゃ楽しかった…って
改めて呟く涼介くん可愛かったな。
運営面に思ったこと
待機列について
まず入口で列を作るのは良いのだが、案内が足りておらず全く4列に詰めず
列がだらだら長くなる。
そしてトーハクが見える箇所で写真撮影で立ち止まる人があまりに多く
それを避けてスタッフにチケットを見せなければならず難儀した。
特典の台本引き換えも1列で並んでいて延々と長い。
入場列をプレミアムと一般に分けて、入場時に配布するのでは駄目だったのだろうか。
もっと時間に余裕がある予定だったが、余裕がなくなりグッズ購入は諦めた。
座席について
座席は樹脂製の折り畳み椅子で、座ると結構ヒヤリと冷たい。
ジェルクッションを持って行って良かった。
プレミアム席を購入したのだが、正直自分は不満だった。
下手側5列目で、生憎目の前のお二人が背が高く
俳優の上半身しか見えず、座られると何も見えなかったし、
上手側に行かれると遠すぎて見えず、オペラグラスを使おうにも
物理的に人の頭で見えないので意味が無かった。
正直、これで2万円は無いな、という気持ち。
1~2列目までとそれ以外でSSとS席として分けた方が良い。
一般席もだいぶピンキリで後ろは基本見えなかったと思うが
不満はなかったのだろうか。
配信のカメラについて
台数も少ないから仕方ないが、現場で見えなかったものが
見えるかと思って購入したら別に大して映っていないし、
台詞を別の人が言い始めても何も話していない人を映したまま
というタイミングが結構多い。
暗い野外なのでピントが合っていないことも多く、
カメラの設置場所のせいもあって正面に平行な画角ではないので
見憎いと感じることが多かった。
総じて、もう少し座席は細分化して欲しいし
台本ではなく配信をセットにしてくれた方が有難いと思った。
現場で特典配布の手間も省けるし、台本はグッズで売れば良いのでは。
俳優さんが台本を見る為につけている明かりが非常に眩しかった。
何か覆いをつけてくれた方が良かったと思う。
流司くんが蟀谷につけていたのでより眩しかった。
台本が見えないと1日目のアフトで言っていたが残り2日も蟀谷につけていたし
単にネタ的な発言だったのだろうか。
カメラ撮影的にも光は邪魔だったと思うが、運営サイドの誰も問題にしなかったのが謎である。
考察及び解説
町田久成とは
薩摩藩で大目付を務め、薩英戦争や禁門の変に参加した人。
慶応元年に薩摩藩英国留学生を率いてイギリスへ行き
パリ万国博覧会に参加。
西郷隆盛らの武力討幕方針に反対の立場。
維新改革、廃仏毀釈の影響で美術品が壊されたり海外に流れたりすることに
胸を痛め、それを防ごうと官費も不足する中私財を投じて収集した。
青年とは
辞世の句などから判断して、彰義隊の隊士海崎寅太郎である。
彰義隊
慶応4年2月に「大義を彰からにする」という意味で命名し
幕臣の内抗戦派を中心に結成された隊。
町人や博徒、侠客らも参加し隊士は千名以上。
寛永寺を本拠地とした。
幕府軍の部隊遊撃隊の抗戦派の内、榎本武揚の艦隊と同行した者と
江戸に残った者達がおり、後者も彰義隊と共に行動していた。
新選組にいた原田左之助も松山藩の人間として彰義隊に参加している。
また八王子千人同心の有志も参戦した。
彰義隊の拠点が本願寺から寛永寺に移ったのが4月3日、
江戸城が開城し慶喜が水戸へ移ったのが11日なので、
青年と友人が桜を見ながら蟄居の話をしていたことから、
2人が彰義隊に入ることを決めたのはだいぶ遅い段階である。
5月1日に新政府を名乗る薩長軍により江戸市中取締の任を解く通告があり、
事実上の武装解除が布告され、従わなかった為に14日に討伐の布告が出される。
土方歳三ら会津へ向かった者たちが長岡城を巡って戦っていた頃である。
東叡山寛永寺 寒松院
トーハクの隣にあったお寺。現在は別の場所に再建されている。
徳川家康公が亡くなる時、藤堂高虎に
「宗門が違うからあなたと来世の浄土が違うことが心残りだ」と仰り、
藤堂は「天台宗に改宗します」と即座に得度、天海に「寒松院」の法名を戴いた。
上野東照宮建立時に藤堂の津藩下屋敷の土地を献上し、東照宮別当寺として建立したのが寒松院である。
上野戦争
彰義隊の本営は寒松院にあり、薩長軍の前線指揮所は上野松坂屋に置かれた。
当時お店の方は本陣にされたことも知らず、朝起きると接収されていて
番頭たちは慌てて貴重品を蔵に入れたという。
因みに土方歳三が幼少時に丁稚奉公に来たと言われるのもこの松坂屋。
薩長軍には慎重派もいたものの、上野戦争で指揮をとったのは殲滅派の大村益次郎である。
旧幕府勢力は徹底的に殲滅する方針であり、皆殺しにするつもりだった。
交通を分断し上野を封鎖して取り囲むように軍勢を配置している。
5月15日の早朝薩長軍から宣戦布告があり、午前7時ころに戦争が始まった。
この日は雨であり、谷中の藍染川が増水するほどだった。
薩長軍は加賀藩上屋敷(現在の東京大学辺り)から大砲で砲撃。

東都下谷絵図 https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000013-00042353
現在の上野恩賜公園南端の交番側から少し入った辺りに
寛永寺の黒門があり、最も大事な門であった。
黒く塗られていたことから黒門と呼ばれていた。
この右手の階段を登った場所が山王台跡であり、黒門口と山王台が
上野戦争の二大激戦地である。
当時は階段ではなく崖状で、袴の後ろ姿に似ていることから袴腰と呼ばれていた。
この黒門口攻撃を指揮したのは西郷隆盛である。
当時は不忍池に繋がる忍川(しのぶがわ)が流れ、3つの橋がかかっていた。
これは昭和初期に暗渠となって橋がなくなり、
現在はあんみつ屋の名前として残るばかりである。
この三橋辺りでは彰義隊が畳と土嚢で防御しながら奮戦した。
元新選組隊士の原田左之助が奮闘したのもこの場所と伝わる。
黒門左右の料亭が薩長軍に接収され、そこから援護射撃が加えられた。
彰義隊が反撃の為に料亭に火玉を投げ込むが雨で消えてしまう。
不忍池から小舟で上陸してくる敵もおり、現在の公園内の緑地部分には
彰義隊がそれを防ぐ為築いた塹壕跡も残っている。
黒門口が危うくなり、彰義隊副頭取の天野八郎が
自ら黒門口を守る為旗本など40余名を連れて向かうも
振り返ると誰も着いてきておらず、不甲斐なさに溜息をつく間もなく
一番隊副長林半蔵に大砲を撃たせ、
遊撃隊伍長新開儀三郎と海崎寅太郎らの助けを得て自ら大砲を運搬し反撃した。
しかし破られて寛永寺の本堂まで退却することになる。
団子坂方面の薩長軍も彰義隊の防衛を破り本営の背後に回り込む。
午前中の戦況は一進一退だったが、昼頃に寛永寺の中堂に火を点けられ、
二つ堂及び鐘楼、又吉祥閣(仁王門)などに延焼し彰義隊不利に一気に傾いた。
海崎は既に数か所に深手を負っており、清水堂の前に辿り着いたところで屠腹した。
近くに散乱する紙切れに
「光るかと見る間に消ゆる花火哉」の句があったという。
海崎に関する史料は少なく、確からしいエピソードは
以上の黒門口での奮戦と切腹の2点のみである。
海崎が19歳で正確には彰義隊ではなく遊撃隊の伍長とする資料もあった。
創作では麹町の元旗本である海崎家は当主が病身の為、甥の斎木寅太郎が継いだが、
徳川家への謝恩の為と周囲の反対を押し切って彰義隊に参加したとするものがあった。
《参考資料》
彰義隊戦記 永岡慶之助 著
彰義隊戦史 山崎有信 著
彰義隊始末記 小野金次郎 著
志士と壮士の歌 佃実夫 著 他
17時頃には彰義隊はほぼ全滅し残党は敗走することになる。
この後一部有志は榎本武揚の艦隊に合流する。
黒門について
寛永寺は現在は多くの伽藍が焼失したが、黒門は円通寺に移築され保存されている。
戦士した彰義隊士の遺体は見せしめの為野晒しにされており、
円通寺住職の仏磨和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎が円通寺に合葬した縁で
移築され保存されることになった。
黒門には無数の弾痕が残っている。
円通寺 http://www6.plala.or.jp/entsuji/newpage2.htm
上野公園内の黒門跡地には蜀山人の碑が建っている。
辞世の句について
作中では友人も青年も大砲を花火のようだと思ったとする。
筒から火薬の入った弾を撃つという意味では、音は近いと言えなくもないかもしれないが
見惚れるという台詞がある以上見た目の話だと思われる。
しかしそうなると、当時の大砲は鉄の玉が飛んでくるだけである。
花火のように見える要素は無いと自分は考えてしまう。
時間にして6時間から最長でも10時間程度、
海崎の戦った三橋から清水観音堂までは300mしかない距離。
作中を入隊時期とすれば、隊士としては一月あるかないかの期間。
敗走し、敵も次々押し寄せる中の切腹である。
紙切れに書きつけたものが近くに落ちていたとするので、
句も用意して襟に縫い込めたようなものではなく
その場で書いたと推察する。
大義の為に戦うも、あっという間に散るしかなかった寂しさ、
自分の生に対しての思いを花火としたのではなかったかろうか。
お仙ちゃんの茶屋が谷中にあるなら、茶屋が燃えたかどうか
この時点ではわからない筈ではあるが
そちら方面からも回り込まれて囲まれている状況。
火を点けられ周囲を囲まれ大事な門を破られ、
もう自分も戦える体ではなかった絶望を思うと苦しい。
流司くんが台本にあること以外を知っていたのかどうか、
当時のこの日雨が降っていたということを把握していたのかはわからないが、
1・2日目は立ったまま叫び座り込んでの切腹だったのを
3日目の雨の中で跪いて絞り出すように叫んだ後屠腹するのは
見事としか言いようがない。